●冊封使
明に対し琉球は2年に1度進貢を行い、その逆に明からは琉球王朝の皇帝の交代時に冊封使(さっぷうし:さくほうし)といわれる使いがよこされました。その役割は、琉球の王が死去した際、この冊封使が、国王死去に対する追悼式の後に行われる冊封の式典の中で「皇帝の権威は中国内外に伸長しており、琉球も冊封体勢の一員であるとの自覚を持って行動すること、求めにより冊封使を琉球に派遣し、新しい王を冊封するので、琉球の全ての人民は王の治世が成り立つように心を合わせ、琉球の繁栄のために努力をせよ」という旨の詔を読みあげ、そして初めて後継者が国王に即位する、というものでした。
この冊封使は、世代交代の際に琉球を訪れており、およそ25年に1度の来訪であったと考えられています。 さほど多くない頻度とはいえ冊封使の来訪は琉球にとって王朝最大の行事といえました。この冊封の式典のために約500人にのぼる使節団がおよそ200日あまり琉球に滞在するため、琉球側はこの滞在期間のもてなしに心を砕き、大変な準備を重ねたのです。
冊封使のような一時的な来訪以外にも、琉球には多くの中国人が居住していました。明と琉球との冊封関係が始まった頃、明は大量の馬を琉球から調達するために大型の船を下賜しましたが、それだけでなく造船に携わる職人も多く琉球に派遣しました。彼らをはじめ、公式・非公式を含めて数多くの中国人が琉球を訪れ、いわばチャイナ・タウンといえる中国人社会を形成したのです。
琉球におけるこの集団は「唐営(唐栄、後の久米村)」とよばれ、そのほとんどが福建省出身の人たちでした。唐営は那覇港から歩いて15分ほどの場所に位置し、住宅をはじめ生活用式も純然たる中国スタイルの集落でした。そのリーダーは彼ら自身が決定し、自治が確立した社会であったと考えられており、このことは東南アジア各地にある中国人社会と共通していることです。そして、この外国人居住地区を抱えた琉球側も、自分たちに必要な技術を持ち、それを教えてくれる彼らを大変友好的な姿勢で受け入れていました。このことは福建に通じた人材が、琉球の交易や外交、そして日常の生活にも影響を与えたと考えられるでしょう。
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