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| ●ゴーヤー、海を渡る
この間、琉球と明との間を行き来した人物は、明から琉球に遣わされた冊封使、琉球から明に進貢のために渡航した使節団、そして公式・非公式に往来し琉球に居住した民間の福建人、この大きく3つが挙げられます。 彼らのいずれかがゴーヤーの渡航を仲介したのでしょうか。 先章に述べたように、明代初期、ゴーヤーの存在は国王も知るところでしたが、それはあくまで救荒のための植物であり、決して高い生活レベルの人間が常食するものではありませんでした。したがって、彼ら冊封使が、食品として普段からゴーヤーに馴染んでいたとは思えず、したがってとりたててゴーヤーを琉球に持ち込む必要も、そして彼らを迎える琉球とて彼らの饗応のためにゴーヤーを料る必要も無かったのではないでしょうか。彼らの来訪は25年から30年に1度という稀なものであり、その頻度、そして本来の使命の重要性からもわざわざ冊封使がゴーヤーを琉球に持ち込んだとは考えにくいものです。もし、冊封使とゴーヤーを結び付けるならば、それはゴーヤーを食品としてではなく薬としての役割が体系化された、つまりゴーヤーの薬効が確立されはじめた、17世紀になってからではないでしょうか。 それでは琉球からの使節団はどうでしょうか。彼らは、明への貢物を乗せた船に乗り、泉州(後は福州)の港に入ります。その後、使節団の中の一部はさらに首都の応天府(南京)にのぼりますがその他の大多数は泉州にある「来遠駅(後は柔遠駅)」といわれる宿泊施設に滞在し、明の指定する商人との商談を展開しました。そしてそこで得た明からの輸入品を満載し、再び琉球へと帰還したのです。 その滞在期間中に彼らがゴーヤーを知り得たかどうか、これはイエスでもありノーでもあり、推測の域を出ません。 日本でも江戸時代、東北の飢饉に対し藩から出された救荒書には、籾殻や塗り壁に用いる藁なども扱われており、入手に容易な植物をあげるのが前提ですから、琉球からの使節団の行き来が始まった14世紀末から15世紀には前出の「救荒本草」に取り上げられているよう、明ではゴーヤーは庶民の生活エリアではおそらく一般的な植物ではなかったでしょうか。奇しくも泉州のある福建省は中国でも南部の地域。ゴーヤーの栽培条件には合致しています。 琉球の使節団が市井に出てゴーヤーの成るを見出すか、もしくは中国商人によって紹介されるか、はたまた来遠駅での饗応で体験するか、いずれの可能性も否めません。 それでは、最後に琉球に渡来し唐営を形成した福建人はどうでしょうか。前述の推論から考えると、ややもすれば当時のゴーヤーは庶民階級ほど馴染み深い食品であり、彼らがもっともゴーヤーに近い存在だったのではないでしょうか。そして日本の鎖国政策のモデルともなった「海禁政策」を実施していた明から、その禁を犯してまで琉球に渡った民間の福建人に、ゴーヤーを伝播するに価するたくましさをも感じるのです。 |
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