maintitle_01.gif HEAD IMAGE
spacer
ゴーヤーもっと知りたい
 
  その後の琉・明・日関係

cut_2-13.jpg戦国時代末期、豊臣秀吉は明との交易の再開を望んで、その旨を明に申し出ますが、室町幕府同様、明は秀吉に臣従関係を条件に提示します。かの中華思想は実に堅牢なる信念であることがうかがえます。信長と違い、ホトトギズを鳴かせる秀吉もこの明の態度にやはり「キレ」て、たちまちこの話は無かったことになるばかりか、秀吉の朝鮮出兵の引き金にもなりました。

秀吉の死後、江戸幕府を開いた徳川家康も日明貿易の再開を望みましたが、明に断られ、結局本土同志を行き来する交易は開けませんでした。

明との関係、そしてその交易による利潤を得たいのに得られない。この日本のジレンマに目をつけられたのが琉球王国です。
琉球王国に最も近い日本である鹿児島、薩摩藩。薩摩藩の島津氏は明国との交易を望んで、明との国交が継続していた琉球王国にその仲介を請いました。が、受け入れられなかったため、秀吉・家康の命に背いたという名目で1609年、幕府の許可を得て琉球に侵入し、またたく間に支配権を得ました。琉球王国は、明との臣従関係に加えて、薩摩藩島津氏にも従属関係を強いられたのです。

明と島津氏との二重従属という認めがたい状況に陥った琉球王国。
島津氏は琉明貿易で得られる利を奪い、過酷な税制を琉球王国に強要しました。
そして、鎖国政策下にある島津氏が琉球と臣従関係であることが明に知れれば、明と琉球の交易が閉ざされる可能性があることを恐れた島津氏は、この琉球との関係を明にひた隠しにしました。明の冊封使が琉球に訪れる際は、常駐している島津の役人は首里から一斉に姿を消し、衣食住すべてから日本的なものを排除させ、日本の暦の残る石碑などは撤去させるという念のいれようで「ヤマト隠し」を行ったのです。

こうして明・島津氏との両属関係を保ちながら、琉球王国は明治12年琉球処分が行われ沖縄県が設置されるまで、中間貿易国として存続しました。


next
back
space
  HOME ゴーヤーもっと知りたい ゴーヤー100万馬力 ゴーヤーいただきます
  Copyrights GOHYAH-DAISUKI 2002 All Rights Reserved