9)流されて
 
 

種子島からもどって半月ほどたったある朝のことだ。
朝刊の異様な写真に目がとまった。クジラだ。西之表市の西側の海岸にマッコウクジラが打ち上げられたことを知らせる記事だった。

そういえばF君からも似たような話を聞いた。彼が子どものころ、近くの浜にたくさんのイルカが打ち上げられたというのだ。激しい潮流にあらがうことができずに、力つき打ち上げられたらしい。

種子島はまるで激流に突きだした岩だ。激流とはもちろん黒潮だ。
種子島にぶつかった潮は二手に分かれ、大隅海峡でふたたびひとつになり、土佐の沖をめざす。黒潮はこの島に多くのものをもたらした。ひとであり、物であり、農作物であり、文化であり、そして今ではゴミなどを、流し打ち上げるという形で運んできたのだ。

時にはこの国の在り方を、大きく変えてしまうようなものをも運んできた。鉄砲だ。それ以前にも明、中国から伝えられ国産化されていた銅製の小銃(鉄砲とは呼ばなかったらしいが)はあったらしいが、命中率も高く、殺傷能力も高い本格的な鉄砲がはじめて伝えられたのは、種子島だということだ。

一五四三年(天文十二年)のことだ。島の南端門倉岬に明国船が漂着した。乗っていたポルトガル人が持っていたという。その威力を目の当たりにした当時の島主、種子島時 が、大金を積んでたった二丁手に入れたのがはじまりだ。

鉄砲のことについてぼくが感じたことは、別にちがう角度から詳しく書くことにする。が、武器というものは、どうやらひとの心を強くつかんで放さないらしい。多くの刀鍛冶が動員され、翌年には鉄砲の国産化が実現された。そして瞬く間に、堺、根来などに伝えられ日本中にひろがっていく。鉄砲の出現で、それまでの白兵戦のなかで名乗りを上げ一対一で戦うスタイルは、大きく変わることになる。大量の鉄砲を手に入れ、鉄砲を背景にした高い交戦能力を戦略の中心に据え、新しい戦い方を編み出した者が、戦国の覇権を握っていったのだ。

種子島島主の城、赤尾木城の跡に、時 の像が建っている。西の海を眺め、左手には鉄砲を持ち、凛々しく立つ姿だ。それを見上げながら思った。どうして彼は、苦労して自分のものにした鉄砲製造の技術を、商人に託し国内にひろめたのだろう。新たな武器を手に、自ら覇権を争う闘いに出ていかなかったのだろう。

自分なりの答えを見つけるのに、たいして時間はかからなかった。
支配者にもいろんなタイプがあるんだ、きっと。時 というひとは、刀鍛冶に命じたとはいうものの、おそらく自分の手で国産第一号の鉄砲を作りたいという職人のようなひとではなかったかと思う。つくること、完成度を上げることを、それ自体を目的に、さらに技術、技を磨いていく。そんなことがしたかったひとではないだろうか。実際、当時の種子島は良質の砂鉄がとれ、炭も豊富だった。弥生時代の遺跡から鉄製品が出土するという製鉄の盛んなところで、日本全国から腕のいい刀鍛冶が集まっていた。もちろん島主が招き、呼び寄せたのにほかならない。主従一体となって、鉄砲づくりに打ち込む。そこには鉄砲がこの国の在り方をどのように変えるかなど、深く突き詰めて考えている余地などなかったのではないだろうか。ただいいものをつくりたい、それだけだったと思う。

鉄砲の国産化実現の陰には、ひとつのドラマが語り継がれている。
時 から鉄砲の製造を命じられた刀鍛冶、八板金兵衛はポルトガル人から買った鉄砲を分解し、構造を学び、刀鍛冶としての技術を集約し鉄砲を作りあげていった。ところが、その技術をもってしても、たったひとつわからないことがあった。銃身の底をふさぐ栓の内ネジを、どうして切ったらいいかがわからなかったのだ。金兵衛は溶接して栓をする「種子島張り」という方法を考え出すが、これは不発や暴発の危険をはらんだ欠陥品に近い代物だったという。そんな時、ポルトガル人の鉄砲鍛冶を乗せた新たな南蛮船が着く。金兵衛は娘の若狭姫をポルトガル人に嫁がせ、引き換えにネジの切り方を修得しようとしたというのだ。

これにはいくつかの説がある。ポルトガル人の方から嫁に差し出せば教えてやると迫ったとする説、娘が父親の苦労を見るに見かねて申し出たとする説、娘がポルトガル人と恋に落ちたという説などだ。

いずれにしても、金兵衛はこのことで内ネジの切り方を修得し、国産第一号の鉄砲を完成させることになる。ドラマとして語り継がれる背景には、そこまでしてという思いがある。しかし、職人というものは、ものづくりに賭ける者とは、そういうひとたちなのだ。

時 とその意を受けた職人たちは、自らの作り出した鉄砲を手に実際に戦場に赴くことはなかった。しかし、彼らの技術は戦いの様相を変え、覇権を握るのに欠かせない武器、力となった。鉄砲がながく「種子島」と呼ばれたことでもわかるように、種子島の人々は技術でこの国の覇権を握ったのだ。これこそ職人冥利につきるのではないだろうか。

この時、鉄砲と同時にまんなかに支点をもつ西洋式のハサミも伝えられた。これは今も「種子鋏」として根強い人気がある。そして刀剣や鉄砲の製造で培われてきた技術は、この「種子鋏」や「種子包丁」として伝えられている。

時代は四百年以上下る。一八九四年(明治二十七年)。
香港に向かっていたイギリスの帆船ドラメルタン号が嵐に遭い、門倉岬のすぐそば、前之浜に漂着した。島のひとたちは乗組員を救助し、母国からの救助船が着くまで丁重にもてなしたという。乗組員たちは厚遇のお礼にと、食用として船に積んでいた鶏を残していった。インギー鶏、島のひとたちはその鶏をそう呼んだ。インギーとは島のことばで「イギリス」のことらしい。

地元のひとたちはインギー鶏を食用として大切に育ててきたが、簡単に鳥肉が手に入るようになると飼う家も次第に少なくなったという。その後各種の調査で、インギー鶏は世界的にも珍しい品種であることがわかり、九二年には南種子町の文化財に指定され、国や県の補助も受けて鶏舎や食鶏加工場もつくられた。さらに、「インギー鶏振興会」も発足し町を挙げての特産品づくりが推し進められた。

しかし、飼育期間がほかの品種よりもながく、価格も高いなど、商品としてはいくつかの問題をかかえ、新たな販路の開発など試行錯誤が続いているのが現状だそうだ。

ぼくが自分の目で見たのは、漂着地から近い花峰小学校で飼われているインギー鶏だった。子どもたちが大切に育てているのだ。
このインギー鶏、ぼくの目にはふつうの鶏とぜんぜんちがって見えた。毛の色は茶褐色で、よく見かける地鶏と比べると多少艶っぽいかなという程度だ。だけど、歩く姿は立った卵、じっとしていると転がった卵、なんとなく丸っこいのだ。しっぽ……、いや、お尻にあるべき羽がない。聞いてみると尾骨はあるらしいが、お尻にあるべき羽、尾羽がほとんどないということだった。そんなことも珍しいといわれる理由のひとつらしい。

味はというと、これは竹崎にあるリゾートホテルで体験できた。そのホテルでは赤ワイン煮や親子丼など、インギー鶏を使ったメニューを用意している。正直言って、人並み以下の舌の持ち主であるぼくには、ふつうの鳥肉と比べてどうなのかよくわからなかった。まあ、歴史を食べているんだと思うと、なんとも奥行きのある味がしたような、そんな気がした。

ドラメルタン号が漂着した前之浜には立派な記念碑が建てられ、一帯は海浜公園として整備されている。インギー鶏にしろ、漂着地にしろ、町を活性化させる材料として大きな期待を集めている。しかし、四百年前に鉄砲がこの島にもたらした繁栄には、遠くおよばないようだ。

「もっとおもしろいものが流れ着いてるんですよ」

「大きなゴミでも流れ着いたのかい?」

「ええ、まあ、ゴミと言えばゴミですけどね……」

F君に教えられて、夕暮れの犬城の海岸に下りた。
入り江の奥の砂浜に、朽ちかけた船が打ち上げられていた。
造船所以外で、陸に上がった船を見たのはその時がはじめてだった。
夕闇が迫ってくる。空の青は群青になりやがて灰色に、海は色を失いいっきに黒くなり、崩れた波頭が白い線になってぼくたちの間近までやってきては消えていく。無人の船にカラスたちが舞い降りる。彼らのすみかになっているのだろうか。

貨物船だ。船体は錆び、書かれているはずの国籍や船名は読めなくなっていた。何トンくらいの船なのかは見当もつかなかったが、種子島に渡ってくるフェリーよりもはるかに小さく、ひょっとするとジェットフォイルよりも小さいかもしれないと思った。しかし、ああ、船というのは陸に上がるとでっかいものなんだ、という印象だった。「PANAMA」、船尾に残ったペンキがかろうじてそう読めた。

何年か前の台風で打ち上げられたそうだ。当時は見物人も多く、新しい名所ができたみたいな感じだったらしい。だが、ドラメルタン号のように、乗組員と地元のひとたちのあいだに交流があったかどうかは知らない。

流木を集めて焚き火をした。その小さな炎のほかに船を照らすものはなかった。いや、船ではない。錆びた鉄の塊だ。この船も、こんな形で自分の命が終わるとは思ってもみなかっただろう。

打ち上げられて、伝えられて、そこで新しい命を得るものもあれば、静かに終わっていくものもある。命の糧を運んだかもしれない、あるいは夢を運んだかもしれないその貨物船は、ふたたび海にもどることもなく、今もあの海岸で朽ち続けているにちがいない。


「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社
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