19)彼女は今
 
 

中種子町の市街地、野間から国道58号線を少しだけ南下する。
青々としたサトウキビ畑がひろがる田園のなかに、いくつかの福祉施設が肩を寄せあうように建っている。県立養護学校、養護老人ホーム、デイサービスセンター、在宅支援センター、精神薄弱児施設、精神薄弱者更正施設、老人福祉センター、と運営主体はそれぞれ異なるが中種子町の福祉ゾーンをつくり出している。福祉サービスのロケーションを集中し、サービスを受けるひとたちにとっては便利で快適な環境だといえる。

これは地方の小さい都市に行くとよく見られる風景だ。土地の効率的な取得というメリットもあるし、予算、人材という資源を集中することで、サービス自体を充実させようというねらいもあるだろう。

ぼくがなによりもこのゾーンがいいなあと思ったのは、国道ともう一本、島を縦断する幹線道路にはさまれていることだ。そしてすぐ隣には「種子島こりーな」という文化会館が建っている。大勢のひとたちが行き来し、集まる場所にその一帯が隣接している。おおげさに言うと、地域の人々にその存在が毎日意識できるところにあるのだ。

ぼくは、国内各地の施設、作業所をまわり、障害をもったひとたちの生き方に触れ、多くのことを学んできた。彼らはぼくの人生の師と言ってもおおげさではない。彼らはゆっくりと時間をかけて、発達し成長する。多くの苦悩や怒りや悲しみを抱えているが、決して希望を忘れない。そしてだれに対しても優しいのだ。彼らといっしょにいると、自分の浅はかさや、愚かさが手に取るようにわかり、気がつけば励まされている。「なんだ、そういうことだったのか。人生って、ほんとうは楽しいものだったんだ。あくせくしていた自分がばかみたい」って。

だから、ぼくは、障害をもったひとのための施設も、老人のための施設も、暮らしのなかにあってほしいと思うし、だれでも自由に訪れることができる、つまり日々の暮らしのなかで自然に触れあえる形であってほしいと思う。「ほしい」というのは、実際にそうはなっていないことが多いからだ。

たいがいの場合、そういう施設は市街地から遠いところにあり、幹線道路からも離れている。探してでも訪ねないかぎり、触れあうなんてことはほぼ不可能だし、悪い言い方をすれば「隔離」しているようなものなんだ。

ぼくは旅先で、まったくちがうスタイルを見たことがある。
最初はシンガポールだった。蘭の取材に出かけた時のことだ。おそらく十五年ほど前のことだったと思う。その当時から障害をもったひとたちの生き方に関心をもっていたぼくにとって、シンガポールはとても奇妙なところだった。十日間の滞在で、八日めまで障害をもったひとを一切見かけなかったのだ。車椅子を見かけても、それは年老いた白人の観光客くらいのものだった。当時のシンガポールの人口がどれほどだったか記憶にはないが、ほんとうに見かけなかったのだ。

ところが八日めに島の北側に行った時のことだ。シンガポール島は南半分が観光地、北半分が工業、農業地帯とおおよそ分かれていた。取材に行った農園の向こうに空軍基地があった。さらにその向こうに有刺鉄線で囲まれた広大な芝生があった。丘全体を囲っているような感じだった。遠くに建物が見えたが、人影は皆無だった。

「障害者の施設です」

ガイドが教えてくれた。一生なんの心配もなくその中で暮らしていけるという。ガイドは胸を張って説明した。シンガポールは福祉の先進国だとも。シンガポールは国際市場であり国際観光都市、ガーデンシティなんだ。一人でも多くの外国人に訪れてもらうためには、障害をもったひとは邪魔だと言わんばかりだと思った。仕事もせず、恋することもなく、ただ時間を過ごし、ひとつの部屋に、ひとつの建物に、ひとつの敷地に、ひとつの地域に押し込められて生きることが、どんなにつまらなく、どんなにつらいことか、理解できないひとが、いや理解しようとするひとが少ないことは、シンガポールもぼくたちの国もおなじだと感じたことを覚えている。シンガポールでは終ぞ障害をもったひとに出会わなかった。十五年たってそれが今どうなっているかは、ぼくは知らない。

まったく逆のことを感じたのはアラスカだった。
アンカレッジの飛行場に降り立った直後のことだ。シアトルからの乗り継ぎで、荷物だけが一便遅れてしまった。仕方なくロビーで時間をつぶしていた。と、ロビーの床にモップをかけている二人の男性に目がとまった。楽しそうにことばをかわしながら、作業を続けていた。よく見ると彼らは二人とも障害をもっていた。やがて一人がぼくの視線に気づいた。なにをじろじろ見ているんだ、と言われないまでも、自分の好奇が彼らをいやな気分にさせるのではないかと、あわてて目をそらそうとした。が、なぜだかわからないが、ぼくの視線は釘付けになったように彼らからそらすことはできなかった。今から思えば笑顔にひきつけられていたのだろう。

二人が近づいてきた。ぼくの前に立つと笑顔で言った。
「サイトシーイング?(観光か?)」
「イエス……」
「ハヴァ・グッ・タイム!(楽しんできな!)」

楽しそうに笑いながら二人は掃除にもどっていった。なにかしら、とても感動した。
そのことをアラスカの森に案内してくれた友人に話した。拙い英語で、ぼくはその二人を指して、「障害者」という意味で日本では一般的に使われている「disabled」ということばを使った。彼は極端に不快だという顔をした。

「そのことばは能力が欠けているという意味だ。彼らのことを正確には言い表してはいない。ぼくたちは handicapped も使わない」
「じゃあ、なんて言ったらいいの?」
「 different people だ。ちがいがあるというだけなんだ。それから、ぼくはこちらの方が好きだが」
彼はにこっと笑ってことばを継いだ。
「 challenged だ。挑戦を受けているんだ」
「だれから?」
「神様からだよ。挑戦を与えられたんだ。逆に戦いを挑み続けているひとたちでもある。尊敬されるべきなんだ。だから社会全体でサポートしていく。あたりまえのことだ。おなじように暮らし、おなじように働く。試されているのはぼくたちかもしれない」

そういえばいたるところで、障害をもちながら働くひとたちを見かけた。その風景を見ながらぼくは思った。それが自然なんだと。受け入れられているのではなく、当然のこととしてあの二人は空港で働いているのだ。そのことに感動したぼくがばかだった。

どちらかというと、日本の場合はシンガポールに近いような気がするなあ。しかし、これを「隔離」というか「サービスのロケーション集中」というかは、議論の必要なところだろう。でも、中種子町の場合もそうだが、小さな町に行くと必ずと言っていいほど施設と暮らしの距離は小さい。すぐ隣り合わせの距離にある。大きな都市に行けば行くほど、その距離はひろがっていく。

いくつかの都市では、障害をもった人々のための共同作業所などが中心になって、郊外に「福祉村」をつくる構想をもっているという。実際に愛知県では奥三河、設楽町にそういう施設群ができていると聞いた。鹿児島市でもそういう構想を掲げる団体があるという。
愛知県の「福祉村」のホームページをのぞいてみた。

福祉村……それは
障害者の人間らしい暮らしを保障するため
従来型の隔離収容施設ではなく
ノーマライゼーションの理念にかなう
地域社会にとけこんだ小舎制・完全個室制の新しいグループホームです

そう紹介されていた。計画を完全実施するために二十億円の資金が必要で、四億五千万円の自己資金が必要だという。大規模事業だ。だが、名古屋市内ではなく、奥三河、設楽町なのだ。鹿児島市の場合でも、市の中心地から遠く離れた吉野というところだ。都市部や市の中心地となると土地が高すぎて、計画も不可能なのかもしれない。しかし、たしかに「従来型の隔離収容施設ではなく」とは言っても、ひとつの地域に閉じ込めることにならないだろうか。

Kさんは、「福祉村」構想を掲げた鹿児島市の団体が運営する自立ホームで、一人暮らしをしている。以前は市の中心地に両親と三人で暮らし、授産施設に通所していたが、親亡きあとの生活を考えたとき、さまざまな扶助を利用して一人で暮らしていくことが可能なグループホームをつくるべきだと、親子三人で運動の先頭に立ってきた。そして十年来の運動が実り、昨年の夏から一人暮らしをはじめたのだ。

Kさんの趣味はカメラだった。腕前は個展を開くほどだ。授産施設に通わない日は、カメラをぶら下げて電動車椅子に乗り、市内のあちこちに行き写真を撮っていた。デパートとかショッピングセンターに行き、道行くひとに声をかけてモデルになってもらうというポートレート、とくに女性を撮ったものに秀作が多かった。

一人暮らしをはじめてしばらくして彼に会った。夢がかなったのだから、さぞかし意気揚々としているだろうと思っていた。が、少々元気がなかった。

「写真は撮ってる?」
「あまり、撮ってない。街にも出ていない」
「どうして?」
「遠いから。前は電動で一人で行けたけど、今はそういうわけにはいかない」

それ以来彼には会っていないが、新しい写真を撮ったという話も聞いていない。
種子島の話にもどろう。
58号線を歩いて南下していて、ちょうどある施設の前にさしかかった時、急に便意をもよおした。ぼくは躊躇なくその施設に飛び込んだ。デイサービスセンターだった。ちょうどお昼時で給食がはじまろうとしていた。お年寄りたちが食堂に移動していた。

「すいません、トイレ貸してください」

玄関でそう言うと、おばあさんが一人、にこにこしながら近づいてきた。

「すいません……」

ともう一度言いかけるぼくの手を、おもむろに取った。トイレの前までぼくを連れていってくれたのだ。おばあさんは、ぼくがトイレから出てくるまで、入り口で待っていてくれた。そしてふたたび玄関までおくってくれた。ぼくはていねいに礼を言って、ふたたび道路にもどった。玄関をふりかえると、おばあさんはまだそこに立ち、にこやかに手を振っていた。

「彼女は今、幸せなのだろうか」

だれもが自分の家でずっと暮らし、一生を終える。だれもがずっと生まれた街で仕事をし、暮らし、そして年老いていく。そんなあたりまえのことが、夢になるのだろうか。
ぼくは彼女に出会えてとても幸せだった。
やはり、試されているのはぼくたちなんだ。


「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社
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