23)西之表港〜中種子町野間 6:海岸線、路上にて
 
 

歩き出して三時間が過ぎた。だが、まだ西之表市と中種子町の境にもたどりつかない。雨は少しずつ強くなっている。集落と集落の間に建物はほとんどない。でもやっぱりかっぱは着ない。雨が強くなれば、路上に張り出すように生える樹木の枝の下に入る。そうやって小刻みに進んでいく。

あとどれくらい歩けば中種子に入るのだろう。中種子に入ってもどれくらい歩けばめざす野間につくのだろうか。ちょっと弱気になってバス停の前で立ち止まる。しかし、次のバスが来るまでには一時間以上ある。やっぱり歩こう。

山や森の中、あるいは車なんて通っていないようなところを歩くときは、最初からあきらめがついているのか、先に進むことしか考えていない。でも、すぐ横を車がびゅんびゅん走っているところを歩くと、決まって決心が鈍る。ついつい楽をしたくなってしまうのだ。
四時間、深川あたり。ここもサーフィンのポイントらしいが、人影はない。そういえば海岸線のあちこちに立て札があった。

「空き缶、ゴミをすてないで!」

サーファーたちのマナーが悪いそうだ。もちろん島に住むサーファーではない。島外からやってくる、サーフィンをするためだけにやってくる若者たちだ。

「ただ、自分たちだけが楽しかったらそれでいいっていう連中がけっこう多いんですよ」

住吉で出会ったサーファーだという青年は嘆いていた。

「最低限のマナーもないってのが多いよ。ちゃんとしたサーファーまでが、海から閉め出されちゃうよ。そんな連中が多いと」

空き缶、たばこの吸殻、ゴミは平気でぽいぽい捨てる。駐車禁止やバス停にはおかまいなしに車を停める。ところかまわず用便をする。

「遊びやファッションでサーフィンやってるだけだよね。遊びでもいいからさ、サーフィンが好きだったら、海も好きになってほしいよね。自分がおもしろければ、海がどうなったって知らないとか、ここで住んでるひとの暮らしなんてどうでもいいなんてやつは、海に入る資格、ないと思う」

そう言いながら、彼は足元に落ちていた吸い殻やゴミを拾っていた。
深川には小さな社と石碑が建っていた。この国道沿いには、けっこうたくさんの社と石碑が建っている。
深川の石碑には、

征清 征露 記念碑

と刻まれていた。日清、日露戦争の勝利を記念したものらしい。そういう時代もあったんだ。どこにも負けない神州日本という神話がつくりあげられていった。この二つの戦争での勝利で、日本は西欧列強の仲間入りをし、帝国主義、軍国主義の色合いを一層強くしていく。そして日露戦争から四十年後、四百万というこの国のひと々と、二千万人以上のアジアの人々が命を奪われたという、破局的な戦争が終わる。そして今がある。歴史は断片では語れないと思った。
ようやく中種子町に入った。ここまで四時間半。

わずかだが屋久島が姿を見せた。気のせいだろうか、心なしか潮の香りが強くなったような気がした。雨は上がっていた。分厚い雲がわずかに割れ、晴れ間が見えた。一直線に太陽の光が降りてくる。海の色が一気に鮮やかになる。目に見える色彩をつくりだしているのは太陽だということが、よくわかる。

雄龍、雌龍岩あたりでは、もう青空の方がひろくなっていた。緩やかな坂を登ると浜津脇の集落だ。久しぶりに道の両側に家並みが続く。駐在所も郵便局も酒屋もある。町だ。道幅もひろくなり両側に歩道もある。拡幅工事は今も続いているようだ。歩道につくられた花壇に花を植えているおばさんがいた。

「精が出ますね」

声をかけるとおばさんは笑顔を返してくれた。

「花が咲くときれいになりますね」
「うちは家がさみしいから、花壇だけでもきれいにと思って」

すぐそばに彼女の家があった。古い板張りの家だった。まわりには新しく建てなおした家があちこちにあった。F君が言っていた、道路の拡幅工事で補償金をもらった家とそうでなかった家の差だ。仕方のないことなのかもしれないが、そういう差の出ない道路の敷き方ってなかったのだろうか。

「旅行?」
「ええ」
「バス停ならすぐそこ。でも、バスがくるまでにはだいぶ時間があると思うけど……」
「いいえ、歩いてるんです」
「どこから?」
「西之表の港から」
「あらまあ……」

おばさんは、それは大変だと、しきりに感心してわざわざ手をとめて家にもどり、お茶を一杯ふるまってくれた。疲れかけていた足に元気と歩く意欲がもどってきた。

ふたたび海岸線を離れる直前に、塩釜の跡があると聞いていたので場所をさがす。竹之川あたりだ。小さな集落の小さな神社の脇に、海岸へ下りる急な坂道があった。二百メートルほど下りるとその塩釜跡はあった。笹葺きだろうか、屋根は崩れ落ちかけている。いろいろと説明はあるものの、なにがどうなのかわからなかった。が、ここで塩を焚いていたということは事実だ。

塩の製法は応仁年間というから、西暦でいうと一二〇〇年あたりだろうか、種子島に伝えられたという。西之表の大崎というところにある、神社の案内看板に書かれていたことだ。製塩が種子島にもたらされた最初の土地が大崎で、そこに大崎塩屋ができ全島に伝えられたという。最初に伝えられたのは「あじろ釜」による製塩だとされている。これは、ダチクでアジロを編み、それに土、石灰、チシャをニガリでこねあわせ、ぬり重ねて使っていたというが、壊れることも多かったらしい。種子島の製塩は、かつてはとても盛んで、「塩屋」と呼ばれる製塩所がいたるところにでき、今もそれを地名に残しているところが多い。

竹之川の塩釜も「あじろ釜」と呼ばれるものだった。だけど、それほど盛んだった製塩を、どうしてやめてしまったのだろう。専売制という規制があったのかもしれないけれど……。この国の在り方というのは、ずっと中央中心だったんだ。安定的な供給という命題はあるのだろうが、結局は地方の産業の芽を摘むということになるんだ。

だけど、規制緩和の下で、あちこちで自然塩の製塩が行われるようになった。沖縄、伊豆大島、そして種子島の近くでいえば、十島村の宝島だ。それらは地域の特産品となり、取り組みは大きな活力を生み出している。ぼくは実際に宝島の製塩を見た。事業としても確実に販路を切り開き、成長を続けている。なによりも、過疎の地域で将来への希望を生み出しているのがいい。
種子島で製塩が復活する日はこないのだろうか。
歩き出して六時間半。種子島中央家畜市場の門の前で小休止。最後の休憩にする。

モー一頭ふやそう種子島の牛

看板のシャレに笑ってしまった。
座り込んでお茶を飲む。車で通りすぎるひとがなにごとかと、怪訝そうな表情でにらんでいく。やはり種子島は都会の島だ。ぼくの経験でいうといなかへ行けば行くほど、歩いている姿や座り込んで休憩しているのを見て、車を停めてくれたり話しかけてくれたりする。トカラではかならずといっていいほど声をかけられた。都会へ行くほどそれが少なくなるんだ。無関心というやつだろう。大都市では、隣に住むひととも必要以上にことばをかわさないのが普通らしい。

ふたたび歩き出してすぐに、大渡瀬川という小さな川を渡る。国道と並行して小さな橋が架かっていた。草におおわれてよく見ないとわからなかったが、アーチ一連だけの小さいがきれいな石橋だった。

石橋太平橋

文化財として紹介する看板が建てられていた。
鹿児島の甲突川には美しく大きな石橋が五つもかかっていたそうだが、今はすべてコンクリートの橋に架けかえられ、郊外の公園に移築されている。この小さな石橋は桜島の石工がつくったと伝えられている。そしてすぐ隣に国道の橋が架けられていても、今も農道として使われているのだ。つくった石工もきっとうれしいだろうな。

午後五時をまわった。歩き出して八時間が過ぎていた。ようやく野間の市街地にたどりついた。歩いた距離は三十キロほどだろう。さあ、これから宿をさがさなくては。
とりあえず風呂とビール、それから温かい布団がほしい。

「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社
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