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ゴーヤーもっと知りたい
 
  ゴーヤーをめぐる歴史舞台

cut_rekishi.jpg明・琉球・日本

ゴーヤーがいよいよ明を渡る前に、当時の日本、明(中国)、そして琉球の関係をざっと整理する必要があります。
中国では1368年、元が滅び、朱元璋(洪武帝)が明を建国しました。当時の日本は室町幕府三代目、義満の時代です。元寇以来、日本と元との間には国交はなく、幕府は元にかわった明とも初めのうち国交を結ばず、正式な貿易は行われていませんでした。しかし、日本の倭寇(海賊化した集団)が中国沿岸部を荒らすことが多くなり、明はその取り締まりを日本側へ依頼すると同時に、日本との関係締結をも促してきました。これを機に日明貿易が始まり、日本と明との間に人と物の行き来が開始されたといわれます。

一方、琉球では明が建国された当時、中山、南山、北山の三山が覇権抗争の中にありました。山とは島のことを指し、これら三山は一つの勢力が分裂したのではなく、地理的に離れた地域で興った勢力が未統一の過程で覇を争っていたのです。

琉明関係のはじまり

三山の勢力抗争の中、1372年一隻の船が琉球に到着します。その船には明の皇帝からの使節団を乗せたもので、中国側の公式記録である『明実録』によると、その団長である楊載(ようさい)は次のような書を携えていました。

「朕は敵対する勢力を平らげて、中国人が主役となる天下を再興した。臣民の勧めにより朕が即位して皇帝となり、国名を大明と名付け、年号を洪武と定めた。各国に使者を遣わしてこの事を告げると、各王は臣と称し、入貢してきている。汝、琉球は遠海の地にあり、この事を知らないと思うので、とくに使者を遣わして、この事を告げる」(「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉)つまり、明の皇帝の権威を認めて臣下に入れ、という勧誘が、楊載を筆頭とする使節団の目的でした。書面からもうかがえるように明は周辺のアジア諸国に同じように入貢をすすめ、その覇権を拡大・誇示していました。

この書を受けた中山の王、察度(さつど)はさっそく彼の弟である泰期(たいき)を団長とする使節団を、明へ帰る楊載の船に同乗させて入貢を果たしました。ここに初めて琉球と明の公な結びつきが姿をあらわしたのです。
中山に続き、北山、南山も明に入貢し、三山がそれぞれに明との関係を結びますが、1429年、中山の尚氏が三山を統一し、ここに改めて琉球王国として明との往来を重ねていきます。尚氏の国王即位にあたっては、あらかじめ明の皇帝に「琉球国王として認めてほしい」旨の要請(請封)をし、要請を受けた皇帝の使者が琉球に赴き「国王として認める(冊封)」命を下す、という手続きがふまれました。

明の冊封の姿勢は琉球のみならず、日本の室町幕府に対しても示されました。
すなわちこの時代の日明・琉明関係は、揺るぎない中華思想を背景に、明が一段上の場所に立ち、日本国を、琉球王国を「認めてやる」というスタンスのものだったのです。

明と日本

このスタンスに甘んじることが出来なかったのが日本の室町幕府です。4代将軍義持は父である義満の「明に臣従した態度」を卑屈であるとし、同じような世論の高まりも手伝って1411年日明貿易を中止します。
結局のところ、6代将軍義教の時に貿易は再開されるのですが、幕府権力の衰退に伴って貿易の実権は、商人と強い結びつきを得た守護大名の大内氏と細川氏が握ることになります。

しかしこれも長くは続かず、1547年の行き来を最後とし、大内氏の滅亡とともに1551年、日明貿易は終了しました。ここに日本と明国の正式な貿易は幕を閉じるのです。


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