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| ●ゴーヤーをめぐる歴史舞台
ゴーヤーがいよいよ明を渡る前に、当時の日本、明(中国)、そして琉球の関係をざっと整理する必要があります。 一方、琉球では明が建国された当時、中山、南山、北山の三山が覇権抗争の中にありました。山とは島のことを指し、これら三山は一つの勢力が分裂したのではなく、地理的に離れた地域で興った勢力が未統一の過程で覇を争っていたのです。 琉明関係のはじまり三山の勢力抗争の中、1372年一隻の船が琉球に到着します。その船には明の皇帝からの使節団を乗せたもので、中国側の公式記録である『明実録』によると、その団長である楊載(ようさい)は次のような書を携えていました。 「朕は敵対する勢力を平らげて、中国人が主役となる天下を再興した。臣民の勧めにより朕が即位して皇帝となり、国名を大明と名付け、年号を洪武と定めた。各国に使者を遣わしてこの事を告げると、各王は臣と称し、入貢してきている。汝、琉球は遠海の地にあり、この事を知らないと思うので、とくに使者を遣わして、この事を告げる」(「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉)つまり、明の皇帝の権威を認めて臣下に入れ、という勧誘が、楊載を筆頭とする使節団の目的でした。書面からもうかがえるように明は周辺のアジア諸国に同じように入貢をすすめ、その覇権を拡大・誇示していました。 この書を受けた中山の王、察度(さつど)はさっそく彼の弟である泰期(たいき)を団長とする使節団を、明へ帰る楊載の船に同乗させて入貢を果たしました。ここに初めて琉球と明の公な結びつきが姿をあらわしたのです。 明の冊封の姿勢は琉球のみならず、日本の室町幕府に対しても示されました。 このスタンスに甘んじることが出来なかったのが日本の室町幕府です。4代将軍義持は父である義満の「明に臣従した態度」を卑屈であるとし、同じような世論の高まりも手伝って1411年日明貿易を中止します。 しかしこれも長くは続かず、1547年の行き来を最後とし、大内氏の滅亡とともに1551年、日明貿易は終了しました。ここに日本と明国の正式な貿易は幕を閉じるのです。 |
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