11)故郷を思う
 
 

室生犀星だっただろうか、「故郷は遠きにありて思うもの」って言ったのは。ぼくにとってはまさにそのとおりなのだ。片思いみたいなものなんだ。ぼくなんかが心配したところで、京都という都市はなるようになっていく。それがいいか悪いかは、実際にそこに暮らしているひとの意思に任せればいい。だからどんなに古い家並みが壊されて、ビルが建ち並び、高速道路が頭の上を通っても、それはそれでいいことなんだ。そこで暮らすひとたちが選んで決めたことなんだから。京都っていう町を、いったん東京みたいな都市にしてみて、具合が悪かったらまたぶっ壊して、昔みたいな町にしたらいいだけじゃないか。できるものならね。

ぼくの故郷、京都についての感慨は、この程度のものだ。
たしかに両親はまだ元気で、懐かしい風景もたくさん残っている。いつかはもどれたらいいなあと、おぼろげながら思ったりもするが、だからこうあってほしい、ああなってほしくないなどとはあまり思わない。べつに鴨川にフランス風の橋を架けたってかまわない。そのときはそれを架けた市民の代表として、市長の名前をその橋につけたらいい。そうそう、錦江湾の人工島にも、建設するって決めた時の知事の名前をそのままつけたらいいよ。時がたてば、それがほめられるべきものか、謗られるべきものか、一つの答えが出ているだろう。

よく、故郷のために働くという政治家の熱弁を耳にすることはあるけれど、そのたびにシラケているのはぼくだけではないはずだ。
大物も小物もほとんどの政治家は、顔を中央に向けている。東京だ。そして故郷をミニ東京にすることが、その地域にとっての幸せだと考えている。あるいは東京と結ぶ時間をいかに短縮するかをやっきになって考えている。道路を敷き、新幹線を引っ張り、海を埋め立て、ノッポビルを建てる。そんなことしか頭にない。だから「故郷のために」と声高に言われても、今度はなにを建てるんだろう、なにに税金を注ぎ込むのだろうと、シラケてしまうんだ。

ぼくの経験からいうと、地方の町に大きな道路が通り、ビルが建ち並び、なんとか銀座などという繁華街ができると、町の表情は一気に個性を失ってしまう。おきまりのようにパチンコ店がみるみる大きくなり、ど派手な飲み屋のネオンがならび、いかがわしいチラシが散乱し、そしてサラ金の支店が軒を並べるようになるんだ。地方の小さな町がミニ東京になることは、発展でもなんでもないし、それどころか東京に本店をおくレジャー産業やレストラン、そしてサラ金なんかが幅をきかし、地元の店は追い出されていく。これはもう中央による収奪にほかならない。だけどこのことにしたって、ぼくの勝手な言いぐさなのだ。小さな町への片思いなのだ。

港近くの居酒屋で、三十五年前に高校卒業と同時に大阪で就職したという男性にあった。母親の具合が悪くて帰郷したのだという。電話口で医者から、「予後の保証はしない」と言われたので、あわててもどってきたという。だが、病状はそれほど深刻ではなかった。だから、久しぶりにゆっくりして帰ろうと思ってるんだと、焼酎のまわった赤ら顔で笑った。

「いつもは西鹿児島まで夜行で来て、昼の高速船に乗って夕方に島に着くんだけどね、あわてたから飛行機に乗ったよ。大阪から。三十六人乗りの小さなプロペラ機や。よくこんなとこまで飛んでこれると思うよ。ほんまに」

関西弁と島のことばがまじった、妙な話し方だ。もちろん大阪にいるときはしっかりした大阪弁らしいが、島に帰ってくると、からだの奥の方から呼び覚まされるものがあり、こんがらがってくるらしい。だが、ぼくも関西弁をしゃべる人間だとわかると、男は完璧な大阪弁になった。

三十五年前に島を出たのは、彼だけではなかった。彼の高校卒業を機に、父親の弟を頼って家族全員で大阪に移った。

「長男やったばっかりに、わずかな土地があったばっかりに、島に残るちゅう貧乏クジをひかされたちゅうて、よう愚痴こぼしとったなあ。弟は早くに大阪に出て、独立して電機部品の工場をつくって儲けとった。うらやましかったんやろなあ。俺が高校卒業する時に、躊躇なく家族で大阪に出ようって決まった」

父親は弟の工場で働き、彼も最初は大手家電メーカーの工場に勤めたが、すぐに辞め、おなじ工場で働くようになった。折からの高度成長の波に乗り、抱えきれないほどの仕事を受け、工場は人手不足に悩んでいたのだ。
やがて工場は大手家電メーカーの系列下請として株式会社になった。下請といってもひ孫請くらいだと彼は笑った。もちろん弟が社長、兄である彼の父親が専務だ。

「おやじも、叔父さんも、よう働いてたなあ。社長、専務ちゅうても名前だけで、家族のほかには数人の工員だけ。それも叔父さんが勤めてた時の同僚とか、いっしょに大阪に出てきた俺の同級生や。気心のしれた人間ばっかりや。そのうちに親戚のもんが出てきたりで、大阪ちゅうてもまわりは種子島の人間ばっかりや」

はじめは、盆と正月くらいは島にもどることもあったが、親族のほとんどが島を離れると、それすらもなくなった。父親のいちばん下の妹が鹿児島に嫁いでいて、時々墓参りに訪れるくらいだったという。
だから逆に、島のことは忘れることがなかったという。どんなときも必ず島のことを思い出すという。年が明けると、そろそろサトウキビの刈り入れだなと思い、三月の声を聞くと田植えの準備、そして田植え。四月にはサトウキビの植え付けというぐあいだ。彼の頭の中には、三十五年前に出た時の種子島の風景がそのまま残っていた。

「けどなあ、自分の生まれたところは大きいなあと思た。おやじがな、十八年前に隠居して夫婦で島にもどるて言いだしたんや。まだまだ元気で働ける歳やったし、二人だけっていうのが心配やったんで、だいぶ反対したんやけどな……。振り切って帰ってしまいよった。最初から決めてたみたいや、隠居したら島に帰るて」

わずかな土地も家も耕地も、三十五年前にすべて処分していた。彼の両親はなにもない故郷に帰ったのだ。
話を聞きながらぼくは思った。そうさせたものは、故郷に対する強い思い以外のなにものでもないだろう。故郷を思うっていうのは、そういうことなんだ。離れているときはなにも言わずにじっと心にしまっておく。

「おやじとおふくろの行動を見て、ちょっと考えたなあ。なにが幸せかって。大きな都市にいて、いろんなもんにかこまれて、なに不自由ない暮らしをすることだけが幸せとちゃうちゅうことが、なんとなく見えてきた」

それは、男が彼自身に向けたことばだったのかもしれない。なにがほんとうの幸せか、それはだれにもわからないことではないだろうか。だが、大切なことは、時々立ち止まって、そのことを考え続けることではないだろうか。

男の両親が島にもどったことで、男にとっても、家族にとっても、帰ることのできる故郷ができた。いちばん喜んだのは子どもたちだった。二人の子どもは、高校を卒業するまで、夏休みの大半を島で過ごしたという。大阪にはない自然や、きれいな海、それに島のひとたちの人情にふれて、夏休みを終えて大阪にもどってくるたびに、目を見張るほどに成長したように思えたという。

「親の欲目かな」

男は大声で笑った。 だが、その子どもたちも、一人は大阪で今は工場の社長となったその男の片腕として働き、もう一人は東京の大学に進んだ。あんなに好きだった島に、今はほとんど、行くこともないという。

「かわりにね、俺が時々くるんだ。夫婦でね。里帰りや。そらあなあ、どんどん変わっていく。日本中どこ行ったってそうやろ。けど、たったひとつだけでも、見覚えのあるもんが残ってたら、それだけでうれしいもんや」

「故郷ってなに?」

そう聞くと、男はぐいっと焼酎を空けた。そして、にやっと笑いながら言った。

「どんなんなっても、ええとこやね」

「けど、ぜんぜん変わらずに、昔のままであってほしいって言うひとがいるけど」

「そらあ、無理な話や。そらあ、いなかの人間かて、便利なもんほしいで。ま、押し付けはいややけどな」

「自然破壊とか、なんとか……」

「まあな、けど、しゃあないな。新しい空港かてな、ジェット機が降りられるんやろ、あんな小さいプロペラ機やったらかなんけど、ジェット機やったらな。安心やし、便利になるやないか。ものは考えようやで」

焼酎をひとくち飲み、そしてことばを継ぐ。

「自然破壊やていうても、木、切り倒して、植林しても、山削って耕地にしても、見えるもんはおんなじ緑やがな」

ぼくの前の本、『トカラへ』では「癒しの島々」という副題がつけられた。編集者によってつけられたものだが、ぼくはなにか釈然としなかった。最後まで抵抗したが、受け入れられなかった。時代が「癒し」を求めている、つまり売れる切り口だからだ。

ぼくはこの「癒し」ということばに、都会で暮らす人間のエゴしか感じられなかった。離島はこの国の経済とか、政治から切り離されて、そんなことにはおかまいなく、自給自足でのんびり暮らしていると思っているのだ。そして実際足を運んでみて、

「なんでこんな立派な道路がついてるんだ?」とか

「へえ、でっかいスーパーがあるじゃないか」

などと、まぬけなことを言う。あげくのはてに

「もっと絶海の孤島だと思っていたのに、がっかりだ……」

などと平気で言う。

「けど、たったひとつだけでも、見覚えのあるもんが残ってたら、それだけでうれしいもんや」

男のことばに強く納得した。
ぼくにとっての京都もそうだ。ミニ東京になっていこうとする京都。でもぼくはなにかひとつでも見覚えのあるものがあり、あるいは旧知のひとがいるかぎり、その都会にもどるたびに癒されるにちがいない。ぼくは「癒し」とは他者にもとめるものではなく、自分の中に求めるものだと思っている。心の中にある故郷の風景もそのひとつだ。

「俺も引退したら、島にもどる」

男はそう言ってグラスをおき、勘定を済ませて店を出ていった。
後ろ姿を見送りながら、このひとは今幸せなんだろうなあ、と思った。

 

別のかたちで、故郷、種子島のことを考えているひとがいることを、新聞で知った。 今、種子島は核関連施設の誘致問題で揺れている。原子力発電所から出る使用済み核燃料の中間貯蔵施設を、誘致する動きがあるらしい。候補地として西之表市の沖に浮かぶ小さな島、馬毛島と中種子町の増田地区がうわさにのぼっている。ぼくが「あるらしい」とか「うわさ」だと書いているのは、受け入れる側の県、市、町といった行政も、つくる側の電力会社も、計画を一切否定しているからだ。

種子島の沖合い12キロに浮かぶ小島です。かつては漁師の漁ろう小屋が設けられ、牧場もありましたが、現在は無人島です。野生のマゲシカが生息しています。海岸は漁礁が多く、四季を通じて磯釣りが楽しめ、春になるとトビウオの回遊が多いなど、極めて海の幸に恵まれています。また、オオハマボウやソテツの自然群落等も多数あり、幸福を呼ぶという星砂も見られるなど、豊かな自然の無人島となっています。

西之表市が公開するホームページには、馬毛島のことがこう紹介されている。付け加えると、過去にさまざまな開発話が持ち上がっては消えたらしいが、現在は東京の建設会社が島の九八パーセント以上を所有しているという。無人になる最終的なきっかけは、石油備蓄基地をつくるために、住民たちには「移住協力金」という名目で金を渡し、土地を買収したことらしい。一九七五年のことだ。この建設計画については住民の反対運動で断念に追い込まれたという。五年前からは県や市は、日本版無人スペースシャトル「HOPE」の着陸場の建設誘致を国に働きかけているという。だが、こちらの誘致話はいっこうに進展する気配がないらしい。

そんなこともあり、核関連施設の誘致問題が俄然クローズアップされる。さらに、この誘致話は、一人の人物の故郷を思う気持ちにいっそうの現実味を与えられ、この島に大きな議論の渦をつくり出している。

その人物は西之表市出身で現在東京で会社を経営しているという。核関連施設の誘致は種子島の地域浮揚、経済活性化の切り札になると、地元のひとたちを対象にした原発の視察ツアーを主催して、行政に働きかけているという。ぼくは、新聞のインタビューに答えている彼のことばに、正直いって驚かずにはいられなかった。

すべてが故郷の発展を切実に考えたところからのスタートだという。雇用の機会も生まれ、交付金も出る。種子島再生にはもってこいの話だというのだろう。彼はそのために、理解者、賛同者を増やすべく、ツアーを企画し、実行に移したという。今までに四百人ほどが参加した。四千万円近い費用は、すべて彼が私費でまかなっているという。だが、彼は、種子島に住んでいない自分が口を出すことではなくて、地元からまず誘致の声を上げてほしいとも言っている。そのためのツアーなのだ。

具体的に計画のない話に、いくら故郷の発展を思ったからといって、四千万円もの巨費を、ぽんと出せるのだろうか。こういう故郷の思い方もあるんだ。もしほんとうにそうなら、とても美しい話だ。しかし、もし電力会社や建設会社と裏でなんらかの取引があるとしたら、私費だというその費用がどこかから提供されているとすれば、彼は故郷を、そして故郷のひとたちを自分の利益のためにだまし、中央の収奪の餌食にしたことになる。

純粋に科学技術の領域で核エネルギーを論ずるなら、ぼくは、それを是とするか非とするか、正直なところよくわからない。これからの人類の歴史の中で、核を百パーセント管理することができる日がくるかもしれない。 しかし、きょうの時点で、この国を見渡し、原子力発電所や核関連施設がつくられた経過や、その在り方、それを運営する電力会社や資源会社、さらには管理、監督する行政の姿勢を目の当たりにしたとき、とても嫌な気分になる。このままなら、核エネルギーを百パーセント管理することよりも、人類の歴史から放棄して封印してしまった方がよほどいいと思う。

ツアーの費用だって、どうせ電力会社から出ているにちがいないと、大勢のひとが感じているはずだ。資本としての電力会社とは、それほどうさんくさいものなのだ。公益企業でありながら、地域独占だし。クリーンエネルギーを叫びながら、環境破壊が得意だ。賛同する人間、地域には手厚いが、たてつく者には容赦ない。しかも賛同者を増やすためには惜しげもなく金をばらまく。

「いやなら電気を使うな」

そうまで言い切る。この傲慢さはいったいなんだろう。
電力会社に電話を入れ、計画の有無をたずねた。

「うわさは承知しているが、当社には一切関係ない話だし、どのような関与もしていない」

という答えだった。
しかし、西之表市では二十一名の市会議員のうち十七人が呼びかけ人となり、多くの市民が「核施設をつくらせない市民の会」を結成した。一方、漁協関係者を中心とする漁業者、建設団体をはじめ賛成、推進する声も大きい。実際ツアーに参加したひとの大半がそういったひとたちらしい。

「漁師にとっちゃあ、退職金がわりなんだ」

誘致に反対だという土産物屋のおやじが言った。

「今ね、この町じゃあなにをやっても儲からないっていう閉塞感が蔓延してる。いやあ、島全体かなあ。南種子は頼みの宇宙センターで、打ち上げに失敗しちゃうしさあ。中種子には新しい空港ができるけど、つくるだけで終わっちゃうよ。路線維持できないよね。ジェット機飛ばすっていったって。だから、漁師に漁業権放棄の見返りとして金を積めば、みんな喜ぶでしょう」

賛成だという建設会社のオーナーはこう言った。

「農業も漁業もいきづまってるでしょう。観光も展望がない。これ以上公共事業に頼ろうと思っても、もう市の方も財政的にいきづまって逆に公共事業費をカットする方向に動こうとしてる。この局面を打開するのには、核関連施設誘致以外にないっていうのが正直な思いです。私たち建設業者の立場としては、一縷の望みをかけていると言ってもいいです」

彼らの言うとおり、ぼくは島のあちこちを歩いて、この島のいきづまりを肌で感じていた。賛成派、反対派、双方ともこの島の在り方を考えていることがよくわかった。電力会社というやつはそこにつけ込むわけだ。まず、なにをやってもだめだから、大きな開発プロジェクトを誘致するしかないという地方にあたりをつける。そして「地域振興のため」ということばと資本の力で賛同者を集め、思い通りの事業を進めていく。なんてやつらだ。だが、これは残念ながらこの国のあちこちで起こっていることなんだ。

核関連施設を誘致して、ほんとうの意味で大きく発展した町はあるのだろうか。たとえば農作物の価格はどうなったのだろう。魚の値段はどうなったのだろう。その地域で作られた加工食品の値段はどうなったのだろう。土地や住宅の値段はどうなったのだろう。訪れるひとの数はどうなったのだろう。暮らしているひとの数はどうなったのだろう。ほんとうのことを教えてくれるひとはいないのだろうか。

ある賛成派のひとに罵られた。

「外の人間が島のことをごちゃごちゃ言うな。島のことは島の人間が決める」

そのとおりだ、とぼくは思った。だが、賛成するひとたちの大半は、経済効果という隠れ蓑のようなことばを使うが、外から持ち込まれる金に動かされているのではないだろうか。そして、金といっしょに持ち込まれるゴミと都会のエゴには目をつむろうとしている。中央の収奪に手を貸そうとしていることに、このひとたちは気づいていないのだろうか。

核関連施設誘致が最後の切り札だというなら、それはそれが完成したあとにはなにも残らないという意味ではないだろうか。農業も、漁業も、建設業も、そして暮らしも、未来も。

だったら、まだまだすべきことは残されているのではないだろうか。ほんとうに農業も、漁業も、もうだめなのだろうか。

ぼくは思う。もし、四千万円もの大金を原発ツアーに使うなら、そうしてもし、ほんとうに故郷のことを思うなら、それでサトウキビの自動刈り入れ機を何台か買って、老夫婦二人だけでやっているような小さなサトウキビ農家に寄付してくれないか。古い丸木舟で伊勢エビ漁に出る老漁師に、新しい船を造ってあげてくれないか。後継者難に悩む鋏鍛冶たちに、職人育成のための費用を出してあげてくれないか。

ぼくは島で出会った年老いた農夫や漁師の顔を思い浮かべた。 彼らの表情は、問題を抱えながらも、明るさを失ってはいなかった。


「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社
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