| その浜もきれいだった。
そんなには長くなく、あっても四、五百メートルくらいだろう。両端は海岸に張り出した大きな岩で仕切られている。波がまたいい。サーフィンにはもってこいだ。しかし、この海岸の光景は少し奇妙なんだ。波打ち際のすぐそばにプールがある。そこで泳ぐのだ。だれが? もちろんその砂浜を囲うように建っているリゾートホテルの泊まり客たちだ。
このリゾートホテルはこの砂浜の背後に、七階建ての本館と、ログハウス風のビラを四棟をもっている。ホテルの立場から言うと、「目の前が海」ということになる。あるいは「ホテル前のビーチ」ということになる。しかし、これはちがうなあと思った。どうしてはっきり「専用ビーチ」って言わないんだろう、と。
このホテルの本館は、砂浜のちょうど中央に建ち、両手をひろげるように砂浜に沿ってフェンスをのばしている。どう見たって専用ビーチだ。プライベートビーチというやつだ。こうまでフェンスを張られると、泊まり客ではないぼくなどは、とても入りにくくなる。
リゾートというのは(これはあくまでも日本的な意味だけれど)、とても排他的だ。高いお金を払ったひととお金を払わないひとの差というのは、絶対にあるはずなんだ。お金と引き換えにサービスを買っているわけだから。払わないひとは、当然サービスを受けられない。この場合の経費対効果は、この優越感で測られるべきだろう。サービスや料理の程度はまた、別問題だ。
「高い金を払ったのに、料理はまずいし、サービスは悪い」
これは、高い出費に対する愚痴ではなく、それでも払ったという自慢に近いことばなんだ。
ぼくはこのホテルで昼食を食べたけれど、とても後悔した。サービスは悪いし、味ももうひとつ、ふたつ。値段はハイクラスだ。これはほんとうの愚痴だ。たまたま近くに食事のできる店がなかったから、いつものぼくなら、決して入らないようなホテルのレストランに入ったのだ。だから、ほんとうに金を払うのが惜しかった。
どうやらここに泊まる、あるいは食事をすることで、ステイタスを感じ、本来のホスピタリティなんてわからないまま、「ああ、あのホテルは最高だね」などとつぶやく客が多いんだ、きっと。だから、ホテルの側も「うちは一流だ」なんて勘ちがいをしてしまって……。
だから、このリゾートホテルに泊まっているひとたちに対して、砂浜を囲い込むフェンスなどは、優越感をくすぐるための、もっとも効果的な演出じゃないかな。だけど、その砂浜は、だれだって入れるし。遊ぶこともできる。泊まり客専用のビーチじゃないんだ。
ぼくは海岸を独占することほど、愚かなことはないと思っている。
海岸は海への入り口だ。目の前の海は世界の海につながっている。プライベートビーチをもっているリゾートホテルや、そこで優越感に浸る客はまだましだ。地球上にはたくさんの国があって、海に面した国は「領海権」というものを主張して、そこに泳ぐ魚まで自国の資源だと主張する。生きて泳いでいる魚を、自分たちの食い物だって主張するのは、なんとも品がないと思わないか。もちろんそれを生業にしている漁師たちは別だ。必要以上にとらないし、貴重な資源を守ろう、環境を守ろうというひとたちの方が多いと思う。しかし、漁業関係者も政治にふりまわされ、結局は魚をとること自体も国の主張の一部として扱われているのだ。
海はだれかの楽しみのためだけにあるのではない。この星で生きるすべての命のためにあるのだ。そう思った時、ふと京都で暮らす男の子のことを思いだした。
ぼくには離れて暮らす家族がいる。
小学六年生になる男の子は、ぼくのことを「とうちゃん」と呼んでくれる。三年以上も離れて暮らしているのに、だ。ぼくたちのこの暮らし方を指して、とやかくいうひとは山ほどいる。しかし、ぼくたちは多くのことを気にせず、家族であるということに自信をもって日々を重ねている。
実はぼくは、子どものころからそんな暮らし方をしてきた。
両親と離れて暮らしていたわけではないが、父や母の姿をながく見ない。そう、ひとつ屋根の下に住んでいながら、めったに顔を合わせないという暮らしをしていた。
ぼくの両親は共稼ぎで、二人とも早朝から深夜まで働いていた。
ぼくが目を覚ますと、卓袱台の上にはすっかり食事の用意がととのっていた。朝食だけがおかれているときは、その夜はどちらかが、おおかた母親だったが、早く帰ってくる。晩ご飯もおかれているときは、二人とも遅い。卓袱台の上を見て、ぼくはその日の両親の予定をだいたい理解した。そして、両親不在の暮らしにしだいに慣れていった。
そのうちにぼくには、放浪癖のようなものがあらわれはじめた。中学、高校へ通っているころから、暇さえあればリュックひとつをぶら下げて、あっちこっちをぶらついた。
友人の家族たちは、ぼくを快く思っていなかった。そして友人たちに言った。
「あなたはあんな真似をしちゃあだめよ。ちゃんと地に足を着けて生きなさい」
と。どうやらぼくは、人生の落伍者になると、早くから思われていたようだ。
だが、ぼくの場合は引き留めるひともなく、たしなめるひともなく、自由に自分の行きたいところへ行くようになった。日本国内のあちこちはもとより、リュックをひとつ背負ってインドへ、あるいは冷戦まっただ中の東欧へ、気の向くまま興味に衝き動かされるまま歩きまわった。
なにを求めていたのか、自分でもわからない。ただ、どん欲にいろんな場所へ行き、さまざまなものを見、多くのひとと会った。家族からも、日本からも、生まれ育った町からも遠く離れて、さまようように歩きまわった。
でも、不思議にさみしいと感じたことはなかった。どこに行っても土地のひとたちは温かく迎え入れてくれ、困っていたら助けてくれ、優しく接してくれた。時には追い返されたり、殴られたりなんていうこともあったが、そんなことはほんのわずかだった。
そのころぼくが実感していたのは、「世界は広い」ということだけだった。その広い世界をなんとか自分のものにしようと、一人で悪戦苦闘をしていたのかもしれない。でもそんな広い世界の中でも、おなじ年格好のひとを見ると母や父を思い出していた。そして遠く離れてはいるものの、なんとなくそばにいるような、そう、いっしょに歩いているようなそんな気分になっていた。
一九九九年の夏、ぼくはトカラ列島の旅に出た。東シナ海に浮かぶ七つの島を歩く旅に出たのだ。離れて暮らす男の子にも、いっしょにいかないかと誘ってみた。が、彼は来なかった。彼にももう自分の友達があり、自分だけの世界があるのだろう。二週間もの時間をぼくと二人だけで費やすのは、おもしろくないと感じたのかもしれない。結局ぼくは一人で旅に出た。
「あいつも離れていく時期かもしれないな」
ぼくの両親も、きっとそんなふうに思っていたにちがいないと、少しだけさみしかったが、そんな思いを吹っ切るように真っ赤な太陽の下を歩いた。だけど知らず知らずのうちに、歩きながら男の子のことばかりを考えている自分に気づいた。
「この海の色を見せてやりたい」
「この山の頂上に立たせてやりたい」
「この風景を見せてやりたい」
「この話を聞かせてやりたい」
なにかにつけてそう思った。
ある日、ぼくはついに、一歩も動けなくなった。なぜ、ひとから離れて旅を続けるのか、自分でもわからなくなったのだ。なぜ、ぼくは一人で歩き続けようとするのだろうか。
その夜、どうしようもないぼくは、埠頭の上に寝転がり、夜風に吹かれながら月を眺めていた。
「なんだ、そんなことだったのか」
どれくらい眺めていただろう。突然、彼や京都の家族との距離が、あるいはぼくの帰りを待つすべての人々との距離が、一瞬にして縮まった。
「みんな、おなじこの月を見ているんだ」
単純なことだった。世界は広い。けれど、ぼくたちはみんなその世界の中に、確実に生きておなじ月を眺めているんだ。そして目の前の海は世界中をつないでいるんだ、と。
離れることもできる、しかし、戻ることもできる。そう感じた時、ぼくが帰るべきところがはっきりとわかった。それは、場所ではなく、ひとなのだ。それも心という、ひとのいちばん深いところだったんだ。
次の日、朝早くからぼくはふたたび歩き出した。
もう一人ではなかった。
太陽を背に受けて、大勢のひとたちとともに歩いている自分を見ながら、ぼくはトカラの島々を歩いた。
鹿児島にもどると、一通のファックスが届いていた。
京都の男の子からだった。教室の黒板の前で、大きな紙をひろげて持っている彼の写真だった。図画の授業で描いた作品なのだろう。その紙には、大きな勢いのある文字が踊っていた。
世界は広い そしてもっとひろいのは人間の心です
写真を見ながらぼくは思った。ぼくの心の中には、確実に彼がいる、と。そして、遠く離れた男の子に向かって呼びかけた。
君の心の中に、ぼくはいますか? と。
たとえそれがなにであるにせよ、独占するというのは、結局は孤独なことなんだ。分かち合えば、それが楽しい。囲われた海を見てそんなことを思った。
「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社
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