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竹崎から南端門倉岬までは、緩やかな海岸線が続いている。 茎永とよばれる地区は、日本一早いコシヒカリの産地として有名なのだ。三月の末には田植えがはじまるというから、早場米のなかでもいちばん早い。田植えにはまだ少し早かったが、田園の風景は島のほかの場所とはぜんぜんちがう。水田はきれいに区画整理されている。整然とした風景だ。 おなじように、対馬や岡山の神社にも古くから赤米が伝えられているそうだが、それは中国東岸や朝鮮半島経由で大陸からもたらされた品種で、茎永の赤米は東南アジアからフィリピン、台湾、そして琉球弧を経由してもたらされた可能性が高いということだ。ということは、インギー鶏とおなじように、この目の前の前之浜から上陸したのだろうか。いずれにせよ、宝満神社の赤米はここだけにしかないものなんだ。 この蘊蓄は宝満神社と道路をはさんで建つ、「たねがしま赤米館」で得たものだ。ほんとうに小さな資料館だが、古い農機具、模型や映像をうまく使って、稲と赤米、そして種子島、南種子の米作りのことなどをていねいに、わかりやすく紹介している。 ただ、ぼくはいつも思うことだが、こういう資料館にはどうして「マイナスの展示」がないのだろう。いいことばかりではないと思うのだ。米作や農業を取り巻く厳しい環境についても、きちんと展示すべきではないだろうか。たとえば西之表の鉄砲館なら、鋏鍛冶の仕事場の復元までしているのだから、後継者難など今まさに頭を悩ませている問題にもちゃんと光をあてるべきではないだろうか。中種子の歴史民俗資料館なら、黒糖、サトウキビ生産を取り巻く環境をデータで展示すると、より深まるのではないだろうか。 そんなことを思いながら、カウンターで赤米館のリーフレットとポストカードをもらった。いっしょにならべられていた「みなみたね物語」(南種子町地名研究会編)という冊子を手にとって、ぱらぱらとめくった。南種子町に伝わる民話や、各地区に残るさまざまなエピソードが載せられている。あるページに目がとまった。 明治・大正・昭和・平成米価暦 米俵(六十閨j生産者価格表 明治元年から平成十一年までの生産者米価の変遷が、その年の大きな事件といっしょに載せられていた。太平洋戦争終戦まで、上がったり下がったり、けっこう変動していた生産者米価は、戦後は昭和六十一年まで一貫して上がり続けるが、六十二年からは下がり続ける。 F君が言っていたことを思い出した。 生産者米価の漸減は、小さな農家にとって、より厳しいようだ。業を煮やした南種子の農家はついに蜂起し、独立した……、とはならない。農家は従順だ。 それは国内でもそうだ。工業製品の貿易では徹底的に争うくせに、そのアドバンテージを守るために、この国の指導者たちは平気で農産物を生け贄にしてきた。工業製品の分野でも大きな資本は守り、小さな資本は切り捨てる。グローバリゼーションとは、実は、大資本による世界規模の収奪なんじゃないだろうか。国家というのはその利益を代表しているにすぎない。 「だが、国内生産者保護のために補助金が支払われたり、けっこうな金が遣われている。国際競争力のなさを物語っているじゃないか」 そんな声が聞こえてくる。今、農家や酪農畜産農家の保護のために遣われている金は、これまでのこの国の指導者たちの失政のツケなんだ。 「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社 |
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