23)西之表港〜中種子町野間 4:ひとがつくりだしたもの
 
 

歩きはじめて一時間あまり。国道58号線は海岸線に出た。
風は強かったけれど、よく晴れていたのでとても眺めがいい。その場に立ちしばらく海を眺める。目の前には薄っぺらな馬毛島が見える。使用済み核燃料の中間貯蔵施設誘致に揺れる島だ。ずっと北の方には大隅半島が見え、その向こうに開聞岳が美しい姿を見せている。はるか彼方の海上には、小さな島影が二つ。黒島、竹島という三島の島だろうか。

頭のなかに鹿児島とその周辺の島々の地図を思い浮かべ、目の前の風景と重ね合わせる。種子島は大隅半島先端、佐多岬のすぐ先に浮かんでいると思い込んでいた。だが、実際は少し西にずれているんだ。たいしたことはないけれど。
いいかげんだな。ぼくは自嘲した。国内あちこちを歩き回り、かなりの確率でこの国の地理的なかたちを知っていると思い込んでいた。そこから、この国のいろんなことを知っているつもりでいた。ぼくの思いこみでいくと、種子島の西海岸に立つと、大隅半島が真っ正面に見え、錦江湾の入り口があり、そして開聞岳が見える予定だった。ぜんぜんちがった。

一事が万事、こういうことなのかもしれない。そんなことで、この国の、いや世界のいったいなにを知ろうというのだろうか。なにがわかるというのだろうか。

西の空が黒く曇ってきた。雲の下はベールが降りたようになり煙っている。雨のベールだ。まっすぐこちらにくるにちがいない。

さらに三十分ほど歩く。下石寺を過ぎたあたりだろうか。道路脇に芝生が敷きつめられ大きな記念碑が建っていた。

 

日本甘藷栽培初地の碑

甘藷、つまりサツマイモが日本で初めて栽培された土地だということだ。サツマイモは明の時代の中国から、琉球に伝えられた。日本初というなら、それは琉球だとする方が正しいのではないだろうか。いや、ちょっと待て、琉球、つまり沖縄は日本だろうか。

この海岸に建つ「日本甘藷栽培初地」の碑には、どうやら琉球、奄美は日本に含めないという意味が込められているようだ。はるか昔、島津家が奄美や琉球を支配下に組み込む前の話だからだ。だけどこの記念碑を建てたのはずっとあとのことだ。「日本甘藷栽培初地」とすることに、なんの疑義もなかったのだろうか。

「ヤマトンチュといっしょにされてはかなわない」

そんなふうに言う沖縄、奄美のひとも多いかもしれない。どちらかといえばぼくもその立場をとる。でも、どうでもいいことかもしれないけれど、「日本甘藷栽培初地」というのが石碑を建てて記念すべきことであるとすれば、すべてのものを奪い取ってしまうような、そんな傲慢さが気になって仕方がない。

「その当時の事実を淡々と書いてあるだけだ。しかも、このサツマイモの栽培成功で、この島は飢饉からも免れるようになったし、サツマイモはこの国の貴重な食糧になった。これは記念すべきことですよ」

ある市会議員に話を聞いた。
だがぼくには少し異議がある。

サツマイモは、たまたま琉球から持ち込まれて、種子島で栽培されるようになったのではない。一六九八年、当時の種子島島主、種子島久基の懇願に応じて琉球王尚貞から贈られたものなのだ。種子島の農民は苦労して栽培に成功し、さらに酢、醤油、砂糖、焼酎、あめなどさまざまな加工を工夫する。この普及のお陰で、種子島では享保の飢饉を最低限の被害でのりきったという。まさに救いの食物になったのだ。やがてサツマイモはこの国のすみずみにまで伝えられる。太平洋戦争の戦中、そして戦後しばらく、サツマイモに命を救われたというひとも少なくないのではないか。「琉球国種子島友好の碑」かなんかのほうがよさそうだな。そんな思いで石碑を見上げる。
もう黒い雲はすぐそこまできている。このまま降られてもいいか。

ぼくは、リュックからかっぱを取り出したが、しまいなおしてもう少し芝生の上に座っていることにした。雨の境目を間近に見たいと思ったのだ。

車が途切れると、波の音が響く。風の音と波の音がひとつになり、まるで飛行機の爆音のような音になる。

「波の音を聞きながら寝たもんだ」

F君のことばを思い出した。ぼくは心地よいさざ波の音を想像していた。だがちがったようだ。そういえば、F君はこうも言っていた。

「台風のときの波はすごいよ。壁みたいな海が迫ってくるんだから」

少し波打ち際に降りてみようと思った。道路を渡り、下を見た。波打ち際などというものではなかった。ヤクザ映画ばかりを作っていた映画会社の社名が、目の前に浮かび上がりそうだった。大きな波が次から次に岩にぶつかり砕け散っている。砂浜のあるところで降りることにしよう。もう少し歩けば能野浜という砂浜があるはずだ。そこで種子島の海に触れることにした。

歩き出して二時間。能野浜はマーブル模様が鮮やかな砂浜だった。大理石というよりも、チョコレートを流し込んだバニラアイスクリームという感じだ。

模様をつくり出しているのは砂鉄だ。豊富な砂鉄がこの島をたたらの島にした。この島では太古の昔から鉄を打ち、いろいろものを作ってきた。その技術が鉄砲を生み出し、種子鋏を作り出した。砂浜の砂鉄を見て、だれがいったい鉄をつくり、道具をつくり、武器をつくることを考えたのだろう。ひとも、島を呑み込んでしまう波といっしょだ。気の遠くなるような時間をかけて、代を継いで、いろんなものを自分のものにしてきた。

砂浜に立ち海を見る。サーフィンにはうってつけのポイントだと聞いたが、波間に人影は見えない。真っ黒な雲の下から浜に向かって、何本もの白い筋が押し寄せてくる。海が陸地をめざして必死になって立ち上がり、前へ進もうとしている。後押しの強い風が加勢する。だが、陸地を目前にして力つき倒れる。あとには無残な飛沫が残り、それでも陸をめざそうとする。そうして最後は、静かに、砂浜に吸い込まれるように、消えていく。太陽に照らされれば、光り輝く波飛沫に希望も感じるかもしれないが、どんよりとした空の下で水の色も黒い。太陽の光すら突き抜けられない分厚い雲が笑っているようだ。しかし、一見儚く見える波も、気の遠くなるような時間を重ね、やがてこの島を海のなかに消してしまう日がくるのかもしれない。それをくい止め、この島を自分たちのものにし続けるために、ひとはきっと海岸のまわりをコンクリートで固めるのだろう。

夏の間、大勢の海水浴客でにぎわったはずの海の家が、さみしそうにぽつんと建っている。フェンスや屋根の鮮やかだったはずのブルーが、ところどころ心細くなっている。看板がわりに店の前に置かれたままの大きな錨が、枯れ草に埋もれている。建物の中もイスや机が放置され、ひっくり返り、荒れ果てている。しかし、夏が近くなればふたたび色が塗られ、整えられ客の訪れを待つのだろう。人間というのは、なんとなくさみしくて、身勝手なものだなと思ってしまう。ぼくたち人間の歴史は、カガクとギジュツで自然を自分のものにしてしまう歴史だった。それはすべての自然をひとの尺度ではかる、つまり人間の時間に置き換えてしまうことだと、ぼくは思っている。地球の時間、もっと大きな宇宙の時間ではかれば、ぼくたち人間も自然の一部、しかも決して主流をなすことのない一部なのに。目の前にある山や岩や森よりもずっとずっと命は短いんだ。

道路を渡ると緑の回廊と名付けられた公園があった。小休止だ。真ん中にコンクリートで固められた人工の池があった。オタマジャクシがうじゃうじゃ湧いて出るように泳いでいた。ここはもう春だ。

ふたたび歩きはじめる。しとしとと雨が降りはじめた。結局雨のベールは見ることができなかった。すぐに「能野焼窯跡」という看板にひかれて58号線をそれ、海沿いの集落に入っていく。上能野だ。

能野焼というのは不思議な焼き物だと聞いたことがある。備前焼のように釉薬を使わずに、土そのものの持ち味を大切に焼き上げる。ところが土に含まれる鉄分が多いので、焼き上がりの風合いは濃密で重厚なものになり、さらに使い込むほどに色つやがよくなるという。

三百年以上前から作られてきたというが、途中ながく絶えていた時期もある。しかし、土地独特の焼き物の火を消してはならないというひとたちの手で再興され、しっかりと受け継がれている。

道案内の看板にそって歩く。看板は人家の間の細い路地を指している。さらに進む。路地は行き止まりになっている。しかし、ひと際大きな看板が畑を指し示していた。

「窯跡はあっちでいいんですか」

畑で作業をしていたおばさんにたずねた。おばさんは笑いながらうなずいた。

「畑、通っていいですかね」

おばさんはもう一度笑った。

畑の中をおそるおそる歩き出すと、背中でおばさんの声がした。

「なんにもないよ」

ことばどおり、そこには看板と立入禁止のロープしかなかった。当時の作業の雰囲気や名残を伝える物は、見える範囲ではなに一つとして残っていなかった。

とぼとぼと引き返すぼくを見ておばさんが言った。

「ねっ、なにもなかっただろ」

ただうなずくしかない自分が、なんとなく情けなかった。

「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社
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