(8)洋上の島唄
海人の朝は早い。明朝は4時に起床、準備が整い次第出港するという。Tさんと僕は桟橋の酒盛りを早々に引き揚げて彼の家に向かった。
1周数キロほどの小さな島の人の多くは漁業に従事している。かつてはサバニを使った魚釣りが主であった。島と沖縄本島に橋が架けられ、交通が便利になった今では採算性の高いモズクなど養殖業が増えてきた。Tさんのように漁船を駆って魚類を捕る海人は、後継者不足もあってこのごろは少なくなってきた。
島を取り囲む舗装道路から集落の路地に入り、らせん状の坂を少し上ったところにTさんの家はあった。
お邪魔すると、桟橋から先に戻っていた息子さんが牛汁や刺し身などを準備して待っていた。Tさんは数年前に奥さんを病気で亡くし、独り暮らし。会社勤めの20代の息子さんはときどき泊まりに来るらしい。就寝までの間、軽く酒を飲みながら島の行事や風習、漁業の苦労についてしばし歓談した。
ことのほか寒い宵だった。少し傾いたガラス戸の隙間から冷たい風が入り込んでくる。電話の天気予報を聞いていたTさんは受話器を置くと、がらっと戸を開け、空を見上げた。そして、雲の動きを読んでいた。「大丈夫だはず…波は2〜3メートルあるなぁ」とつぶやいた。
僕にはその2〜3メートルという数字がピンと来なかった。心配になってTさんに聞くと「たいしたことないさぁ」と、にべもない。ベテラン漁師がそう言うのだから間違いないだろう。不安と好奇心とが頭の中で入り混じりながら、いつしか眠りに落ちていた。
翌朝、足音で部屋がきしむ音で目が覚めた。外はまだ真っ暗だ。Tさんは奥さんの位牌が置かれ、漁の安全を守る神様のお札が祀られた質素な仏壇に線香をあげ、しばらくの時間手を合わせていた。遊びの漁とは違うのだ。Tさんの祈りは真剣だった。僕もそれにならい、手を合わせた。
桟橋の「恵比寿丸」に荷物を積み込んだ。持って行くものは意外と少なかった。漁に必要なものはほとんど船に常備してあった。
「カッパは持っていないの?」とTさんは尋ねた。「大丈夫ですよ」と僕は気に留めなかった。本土での暮らしで寒さには慣れている、沖縄の寒さなんて大したことない。そんなおごりがあった。この不備が災いし、後で泣く羽目になる。
風はわりと穏やかだった。操舵室のTさんの足下に座った僕は、万一濡れても悔いが残らないように古いカメラとレンズを準備し、ひざの上に置いた。
べた凪の湾内を恵比寿丸は軽快に滑りだした。Tさんは自動操舵装置に漁のポイントのデータを打ち込んでいた。最近の漁船のかじ取りはたいていこの装置に頼っているらしい。
操舵室の屋根に取り付けられたラッパ型のスピーカーからはラジオの音が割れんばかりの大音量で流れていた。ラジオ沖縄の長寿番組「暁でーびる」。うちなーぐちの二人のDJがよもやま話に花を咲かせ、聴取者からのはがきを紹介する。
聴取者は市場に勤めている人やタクシー運転手、農業など朝早い職種が多い。リクエストに応えて島唄が流される。洋上に軽やかな三線と張りのある歌声が響く。
舵を握りながらTさんがラジオに合わせて島唄を口ずさんでいる。本土で漁師というと演歌のイメージが強い。けれど、沖縄の海人にはやはり島唄がぴったりくると思った。
暗い海をひた走る船が外洋にさしかかったことは、次第に激しくなる揺れでわかった。海面を滑っていた船に波が抵抗し始めた。それでも恵比寿丸は速度を緩めない。波に船首を突っ込み、船腹を海面にたたきつける荒々しい航行を繰り返しながら南の漁場へと向かった。
僕はといえば、一度は船首に回り撮影を試みたが、あまりの大きな揺れに降参してしまった。振り落とされないよう、ただただ船にしがみついているしかなかった。
船が漁場に近付いたころ、紫紺の空のはるか沖合の水平線にうっすらとオレンジ色の夜明けが見えてきた。
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