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(12)ヘリ降る島の憂鬱いつかは落ちると思っていた。2004年8月13日、僕の住むアパートからほど近い沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落、炎上した。米中枢同時テロを受けて、米軍のヘリや軍用機はずっと、市街地上空でかなり乱暴な飛び方をしていた。米軍普天間飛行場付近の住民は、だれしも墜落の恐怖を抱いていた。いやな予感が的中した。 事故が起きたのは午後2時すぎ。僕はあいにく那覇での仕事から抜けられず、現場に到着したのは午後6時前だった。事故からだいぶ時間が経過していたので、現場の状況はある程度収拾しかけていた。それでも現場周辺では、軍服姿の米兵らがそこかしこに展開し、緊迫感を漂わせていた。兵士らはヘリから飛び散った部品を回収し、黄色いビニール袋に集めていた。 普段は閑散としている僕のアパート周辺にも米兵らの軍靴の音が響く。うちのすぐ近くの畑にヘリの尾部ローターが落ちたのだった。焦げ臭さと油の混じった不快なにおいがあたりに漂っていた。 部屋から数台のカメラとありったけのフイルムを持ち出すと、僕は急いで自宅から300mほどの距離にある事故現場の沖縄国際大学へと向かった。 現場の惨状を目の当たりにして息をのんだ。大学の正門横の管理棟と道路との間の狭い空間に墜落し、爆発炎上したヘリは既に鎮火していた。しかし、大学の建物にはヘリのローターがえぐったと思われる数本の生々しい傷跡。黒く焼け焦げた壁面が異様な雰囲気をかもしていた。何よりもかすかに白煙をなびかせた原型をとどめないヘリの無惨な姿が事故の物凄さを語っていた。 いち早く現場に駆け付けた地元報道機関の友人に尋ねると、事故発生直後に普天間基地から米兵らが大挙して押し寄せ、現場を封鎖。報道陣も排除され、米兵は写真撮影する学生や市民からカメラ付き携帯電話やフイルムを奪おうとしたという。現場では大学や報道関係者と米兵との押し問答が続き、緊迫した様子が漂っていた。僕は遅ればせながら急いで撮影を開始した。 僕が普天間基地のすぐそばに住んでいるのには理由があった。遅かれ早かれこのような大事故が起きると予想していた。そのときにはきちんと記録しなければいけないという何かしら使命感のようなものを感じていた。 のちにヘリの軌跡をたどってみると、うちのそばの我如古ヒージャーガー(昔からある集落共同の水場)下の畑に何らかの理由で尾部ローターがへし折れて落下。その後、制御不能となったヘリは、林立するマンションをかすめ、きりもみ状態で沖国大構内に墜落、炎上した。もし、僕がベランダから外を眺めていたとしたら、一部始終が見渡せたわけだ。那覇での仕事がなかったらいち早く現場に駆け付け、撮影できただろうに…。 現場付近は米軍によって完全封鎖されていた。道路はロープが張られ、沖縄県警が随所に立って、近付く者を排除。大学には学長はじめ関係者さえ立ち入りが認められなかった。前述の撮影阻止などこれら米軍の行為は後に日米地位協定に違反していたということが判明する。 大学から道路ひとつへだてたマンションの駐車場付近からは墜落現場がよく見えた。マスコミ関係者や近所の住民が遠巻きに事の推移をながめていた。やじ馬も集まり騒然とした雰囲気につつまれていた。 米軍の完全封鎖で警官さえも立ち入れない大学構内に、軍人らはコーラやジュースを大量に持ち込んだ。やがて宅配のピザ屋の車が到着すると、簡単に大学構内に招き入れられた。それを見ていた市民の怒りに火がついた。学生らが拡声器を使い、日本語で抗議するが米兵には伝わらない。「ピクニック気分か!!」と怒声が響いたが、市民の事故に対する恐怖や不安をよそに米軍兵士らは投光器に照らされた大学構内でのんきにピザをつまんでいた。 負傷したヘリの乗員は気の毒だが、現場は住宅などの密集地。地域住民に誰一人けが人が出なかったことは「奇跡」という言葉でしか表現しようがない。僕も含めて誰もが墜落の危険と恐怖は感じていた。それが現実となったわけだ。中にはヘリの部品がマンションの窓ガラスやふすまを突き破ったが、「ヘリが落ちる」との親類からの連絡で、寸でのところで家を出ていて難を逃れた母子もいる。もしかしたらヘリが自分の家に突っ込んできた可能性もある。 それを米軍の高官は「ヘリの操縦士が上手だったから『不時着』し、けが人が出なかった」。あろうことか後日、大学を視察に訪れた町村外相までもが「よほど操縦が上手だったからうまい具合に空き地に持っていった」と発言。 バカなことを言うなと言いたい。「不時着」ではなく完全な事故だ。しかも、後に明らかになった事故調査報告によると飛行前の整備の段階で本来装着すべきピンの留め具をつけ忘れていたとのこと。墜落したCH53Dというヘリ自体が機齢30年以上の老朽化著しい機材であるが、米軍のアバウトな整備状況もこれで明らかになったわけである。 市民が何ゆえ墜落の恐怖と不安を日常的に訴えていたかというと、米軍のこのようなずさんな整備や機体の管理状況というのが日常的にもれ伝わってくるからだ。穴の開いた箇所にガムテープを張り、塗装でごまかした機体が日常的に金網の向こう側に見える。そんな物体が飛んでいればいつかは落ちることは自明の理。 米空軍嘉手納基地に勤務したことのある知人は「貨物室のドアが閉まらないので空軍の上司に聞いたら『紙を折り曲げて挟んでおけ』と言われ、耳を疑った。けど、実際そうやって飛んでいる」との話だった。ことほどさように米軍はいいかげんな運用を繰り返している。 夜、ヘリ事故のことを東京の編集者に電話すると「全然知らなかった」とのこと。それもそのはず、その日はアテネオリンピックの開幕日で、読売新聞のナベツネが辞任した日でもあった。テレビのニュースのトップはその話で占められ、沖縄の喧噪と恐怖は脇へ追いやられていた。“沖縄通”を自称する筑紫哲也が、かりゆしウエア姿で3項目めぐらいにヘリ事故のニュースをさらっと伝えていたのには苦笑するしかなかった。 とにかくこの件を闇に葬り去られてはいけないと、僕は「フライデー」「SPA!!」など写真週刊誌から、若者向けの一般誌「サイゾー」「ダカーポ」「週刊プレイボーイ」など各雑誌に写真やコメントを掲載してもらった。 信じられないだろうが事故後、米軍の宜野湾市民に対する態度はこうである。まず、宜野湾市役所向かいの駐車場、運動場(米軍が市に無償提供しているとされる)の入り口がある日突然、夜のうちに施錠された。中に車が止まっていたにもかかわらずである。理由はおそらく市長が米軍に対し、猛烈に抗議したからであろう。 30000人を集めた抗議集会が沖国大グラウンドで開かれた翌日は、F15戦闘機が超低空飛行で宜野湾市街地をかすめ飛び、市民に爆音をまき散らした。「生意気なやつらに一発かましとけ」。司令官の命令が聞こえるような行為である。 これが米軍の真の姿。血も涙もない人殺しの軍隊以外の何ものでもない。戦後60年、日本国内の米軍基地の70パーセント以上を背負わされ、このような不作法な連中と同居してきた沖縄の苦悩と憤怒は積もり積もっている。 首都圏コープが発刊している雑誌「POCO21」11月号に僕は、事故の端緒となった米軍ヘリの尾部ローターの写真を掲載し、こう書いた。「沖縄の“地獄”はそろそろ本土でも肩代わりする時期にきている」。…などと言われても本土の人たちだっていやがるに違いない。 政府は口では「沖縄の負担軽減」をほおめかしながら、いま、普天間代替施設建設のためのボーリング調査を名護市辺野古沖で強行している。国の天然記念物で国際的にも保護の声が高いジュゴンがすむ海で、環境アセスメント抜きでサンゴ礁に大きな穴を開けようとしている。 実質的な着工ともいえる行為に、現地では住民らによる座り込み行動が半年以上も続いている。挙げ句は民間航空以外使用させないとの覚書が前提の下地島空港を米軍と自衛隊で共有しようという動きもある。沖縄の基地負担軽減どころか新たな“たらい回し”の始まりに住民の怒りと困惑は収まらない。 |
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